カテゴリ:おいたち( 7 )

私のおいたち ~夫婦別姓、子育て~

 多くの方から「なぜ夫婦別姓なの?」との質問。改めて聞かれると少し困るのが本音です。

 結婚まで28年間、浜川百合子として生きてきました。夫とは出会った頃から姓で呼び合い、切磋琢磨するライバルのような関係でした。結婚した時、これまでの姓を名乗り合うことが私たち夫婦にとっては一番自然な選択でした。


 ただ、戸籍上は夫の姓。保育園も保険証も免許証も「山本」です。「山本さん」と呼ばれるたび、自分でない感覚になります。手続きも戸籍名と通称で使い分けねばならず不便。通称使用の限界も感じます。
 娘はというと、ごく自然に受け入れていて「お母ちゃんははまかわゆりこです」と紹介してくれます。それが我が家の家族の形


 名前は人権に関わる問題であり、大事なのは、夫婦が互いに一番よい形を選択できること。特に若い世代で選択的夫婦別姓を望む声が強い。国連からも勧告を受けています。皆が自分らしく人生を歩めるよう、選択的夫婦別姓制度を実現したいですね。



 もう一つ多い質問は「子育て中の候補者活動、大丈夫?」
 夫と娘の協力に感謝。保育園に送るのは私、迎えは夫になりました。(今は送るのも夫かな)
 18時過ぎに帰宅し、ごはんを食べ、お風呂に入れ、寝かしつけながら寝てしまう毎日。最近は娘が寝た後に帰宅することばかりで、一緒の時間が減りました。
 

 「さみしい」と呟く娘のため、週一回、居残り保育前に迎えに行きます。「ちょうは おかあちゃんが はやくおむかえにくるって みんなにいいまわったが。」ととび跳ねて喜んでくれます。
 過ごす時間が短くなる分、一緒の時間は特別になるようにと願っています。と言いつつ、今日も怒ってしまった、と反省の繰り返しです。


 夫が干すしわしわの洗濯物も、娘が書く「がんばって」と読むらしい手紙も、私の支えです。
 
 
 何気ない日々を幸せに暮らしたい、という願いを忘れないよう、生活に軸足を置いて政治を見つめる。慌ただしい日常が政治を変える原動力です。
 さぁ、今日も頑張ります!

 
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by hamazouzou | 2013-07-01 09:03 | おいたち

私のおいたち ~高知大学へ 仲間との出会い~

 1998年、高知大学教育学部に入学。3月というのに田に水がはられ、蛙の大合唱が聞こえる、という京都との違いに驚き、戸惑いながらの学生生活が始まりました。


 大学では、学業、サークル(こどもクラブ)、新入生歓迎運動実行委員会、民青同盟と忙しい日々を送りました。
 
学生時代にも多くの出会いがありました。

 
 一つは、子どもたち。サークルや教育実習を通じて多くの子どもと関わりました。勉強が分かった時のキラキラした瞳。認められた時の誇らしげな顔。家庭の中で傷ついている子。受験に追われ疲れている子。どの子も素敵な可能性を持った子どもたちでした。 土佐町中学での教育実習では2週間、地元にホームステイをしました。思春期の揺れ動く心をもてあましながら、たった二週間でも成長していく生徒の姿。子どもの成長を見守る地域の人たち、自然とともにある山の暮らし。地域全体で歓迎してくれるその懐の深さと優しさに魅了されました。


 二つ目は、友人。子どもの成長を喜び合い、教員を目指す友人たち。一方、教員採用は狭き門で、夢を諦める友人もいました。高学費が学生を苦しめる現実もありました。その中で「社会をよくしよう」と学びあう民青の仲間にも出会いました。


 三つ目は、自分の生き方を見つめる学び。科学的社会主義の学びは私の世界を広げてくれました。
 社会は変革できる。社会を変えるのはヒーローでなく私たち一人一人。「主体者」として生きていこう。 そう決意した頃、民青同盟の専従者になってほしい、と要請を受けました。教員への夢か、民青か。半年間悩み、専従者となることを決意しました。



 日記には、「人の成長に関わりたい。人を大切にする社会を作りたい」「浜川百合子という人間として生きていくために、私が私でないといけない理由を自分で作るために、私はこの道を選ぶ」と記しています。


 私は自分の手で自分が生きていく道を選び、それは誇りになり、震えるくらいの感動がありました。「青年が自分の生きる道を、自分で決められる社会を作りたい」という思いで民青同盟の専従者として歩き始めました。
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by hamazouzou | 2013-06-29 11:12 | おいたち

私のおいたち ~かけがえのない中学・高校生活~

 1992年に入学した京都市立修学院中学校は、毎日窓ガラスは割れる、廊下にはたばこ、という荒れた状況でした。
 中学二年のこと。ホームルームに遅れて来た先生が「ごめん。教室のそばまで来た○君を誘っていて遅れた」と言いました。
 ○君は「不良」で、学校に来ても教室には入らない子でした。
 みんなが「遅い!」と文句を言うと、先生は「彼は『自分が入ると皆の視線が止まって見て見ぬふりをする。俺はいなくてもいい存在や』って言うてるよ。」と悲しそうに言いました。
 彼は勉強が嫌で、教室にこないと思っていた私たちにとってそれは衝撃でした。
 その日、不良仲間とたむろする彼を見つけた時、友達と勇気を出して「○くーん、明日も来てな」と叫びました。同じことをした子が他にもいました。
 翌日から○君は教室来るようになり、挨拶しあうようにもなりました。
 どんな子もかけがえない存在です。認められれば人は変わる。学校が生徒を受け止め、排除しない大切さ。卒業アルバムには特攻服姿の彼らの姿もきちんと写っています。


 高校は京都府立洛北高校に入学。制服はなく私服、湯川秀樹氏も学んだ自由で伝統ある学校です。
 進学クラスに入ったものの勉強は落ちこぼれ。赤点をとると友人が丁寧に勉強を教えてくれました。
 部活はバスケ部のマネージャー。そこでできた友人とは語り、笑い、心を動かしあう大切な仲間でした


 3年生が仮装して地域を練り歩く名物の仮装行列が中止されそうになったり、7時間目(補講)が導入されたり、と強まる管理教育とのたたかいの高校生活でもありました。「放課後は大事な生徒の時間」と言ってくれた先生。
 「浪人は時間の無駄。」と発言する管理職がいる中、「自分の進路は自分で決めなさい。自分の頭で考えられる人になりなさい」と教えてくれた担任の先生。
 卒業式で「人生で無駄かどうかを決めるのは私たち自身。いつも生徒の立場に立ってくれた先生たちに感謝」と生徒が話したように、先生の背中を見て、私たちは何が大事かを学びました。


 実は、私立高校の受験に失敗し、塾では「公立高校に通う人は落ちこぼれ」と言われ傷つきながら始まった高校生活でしたが、かけがえのない友人、先生との出会いで、高校生活は私の人生で一番幸せのつまった時間となりました。 
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by hamazouzou | 2013-06-21 17:26 | おいたち

私のおいたち ~京都の長屋で生まれ育つ~

 私は、1979年10月、大学生協職員の父と薬剤師として働く母の間に生まれました。
育った京都市左京区は歴史の古い地域で、近くに詩仙堂、曼殊院、一乗寺下がり松など観光名所も数多くあります。
 

 実家のある長屋は日本共産党の活動家が多く、私は一人っ子ですが、親のような近所の人たち、兄弟のような幼馴染たちがいて、寂しさを感じることなく育ちました。
 親たちは、忙しく騒がしく、特に選挙の時はお祭りでした。親が朝から晩まで選挙をするので、子どもがご飯作りも手伝い、開票をみんなでみる。大人が一喜一憂する中で、子どもにとっては、賑やかで楽しみな一日でした。


 病院の院内保育園、3歳からは京都大学の裏にある朱い実保育園に通います。
はだしで遊びまわり、男の子に間違われることもしばしば。保育園が大好きでたまりませんでした。


 小学校は比叡山の麓の修学院小学校に入学。高学年の時、運動会、修学旅行、卒業式などの行事運営を生徒による実行委員会で行うことになりました。一人の人として尊重してもらえることが嬉しく誇らしかったことを覚えています。


 私は広島への修学旅行の実行委員になりました。修学旅行に向けて平和学習を進めていたとき、出会ったのが、サイド・オマールさんです。
 オマールさんは太平洋戦争中、マレーシアから特別南方留学生として日本に連れてこられ、広島で学んでいたのですが8月6日、被爆します。左半身に大やけどを負いながら、日本人の救援活動を行い、9月祖国に帰るため東京へ向かう途中で京都で体調が悪化し、下車。京大病院に入院し、帰らぬ人となりました。
 そのオマールさんのお墓が校区内の円光寺にあったのです。11歳の私にとって、大きな出会いでした。
 日本が起こした侵略戦争の実態、核兵器の被害、戦争によって奪われた多くの命、そして国を越えて助け支えあった人たちの姿。

 「オマールさんのような人や、戦争を忘れず、人を大切にしていきたい」この思いが原点となり、反戦平和・核廃絶は私のライフワークとなりました。
 また、一人ひとりの自主性を引き出し、地域の中で学び、平和への思いを育んでくれた先生たちのようになりたい、との思いも強くしたのです。
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by hamazouzou | 2013-05-12 09:04 | おいたち

私のおいたち~結婚、出産、子育てへ~

 2008年4月、学生時代から民青や党で一緒に活動してきた四万十市出身の夫と結婚しました。
夫は大学卒業後、民報記者として働き、民青では副委員長でした。
今は、高知地区常任、高知市議団事務局長をしています。
ほどよい「適当さ」がいいところ、かな。


 婚姻届を出し、新しい籍を作りましたが、旧姓を使用しています。
早く選択別夫婦別姓が認められるといいのですが。


 すぐに子どもを授かり、2009年1月に出産。育休をとり、子育てしながら活動をしました。
支えてくれた仲間たちに感謝。


 出産は、生れようとする命の強さを体全体で感じるものでした。
初めての子育てで不安が募る中、新婦人の活動に参加して、地域や身近に相談できる人ができ、本当に安心しました。


 2009年5月、娘を高知市立たかしろ乳児保育園に預け、仕事に復帰。
授乳に通い、布おむつを使い、アットホームないい園でした。

 その園を民営化する話が突然高知市から提案されました。
保護者は不安で混乱しながらも、「子どもたちにとってよりよい保育とは」を真ん中に、
一致できるところで運動する。保護者の声を聞き、つながり学び考えあう。
交流では、子育て世代の厳しい現状も出し合い、励ましあいました。

 市との交渉、署名活動、経験ないことも「子どものためなら」と忙しい中頑張る保護者の姿が頼もしく、希望でした。

 民営化を食い止めることはできませんでしたが、たかしろ園での卒園行事で、
3歳の娘が誇らしげに返事をし、喜びに満ちた表情で卒園証書を受け取った顔は、親子の一生の宝物です。
子どもと親を育ててくれた保育園に感謝。

 今は石立保育園に通い、ここでも素敵な出会いがたくさん。
子どもとともに親になるのだと感じる日々です。



 実は、二人目の子どもを望んでいますが、なかなか授かることができません。
妊娠していないと分かると落ち込み、焦る日々も続きました。
その中で、不妊症や不育症で悩む人が多くいることを知りました。
命の誕生は奇跡だということを生まれてきてくれた娘と、まだ見ぬわが子から教えられました。

 結婚も出産も色々な生き方があります。
多様な人生、選択が認められ、誰もが暮らしやすい社会を作りたい。
奇跡の命が大切にされる社会に。
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by hamazouzou | 2013-04-25 09:01 | おいたち

私のおいたち ~県議団事務局長として~

 2010年5月から県議団「日本共産党と緑心会」の事務局長となりました。
議員の仕事や県庁職員の仕事を間近で学べるやりがいある仕事でした。


 2011年の統一地方選挙を受けて、再び5人になった日本共産党県議会議員団は第2会派となりました。
県議会で女性県議がいる会派は日本共産党だけで、他会派の議員からも、「ここは明るくて楽しそうでいいねぇ」と声をかけられるほど。
とにかく明るく誠実で面白く、チームワーク抜群です。議員がかっこいいのです。


 「何でも反対の共産党」と言われることがありますが、議会にきてその言葉は当てはまらない、ということを痛感しました。是々非々でいつも県民の立場で議論をし、結論を出し、常に検証する。

 アンテナショップ、図書館合築問題、談合問題、子ども条例…。
論戦の中で問題を明らかにして、追及する緊迫した場面もありました。
一つの質問、一言の答弁によって事態が変わる。議会は生きていると実感しました。


 対決だけでなく、一致点をさぐり、たたかいをつなぎ、議会をリードする役割も。
TPP問題では意見書を上げ続け、オスプレイ反対、仁淀川産廃処理施設建設反対でも
他会派をリードし、「自分たちは出せないが共産党が意見書を出してくれるなら賛成する」という場面もありました。


 開会を知らせるブザーがなり、控室から議場へ向かう議員を送り出す時に見る背中が、かっこいい。映画の一場面のようです。


 毎回の団会議は、丹念に県民の要求、実態を報告し合い、それが質問の土台となります。
実態を突き付けることが議会、県を動かす力になるのです。
草の根で県民と結びついた支部、地方議員、民主団体の活動の大切さを肌で感じました。


 常に県民とともにある県議団、議員の力になれる事務局長に成長したいと思っていた昨年12月、まさかの参議院選挙への立候補要請。

 本当に悩みましたが、この二年半、たたかう姿を教え続けてくれた県議団のように
私も県民の願いと国政をつなぐ一翼を担おうと決意をしました。

 
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by hamazouzou | 2013-04-18 09:05 | おいたち

私のおいたち~民青専従 青春そのもの~

高知民報で連載していた「私のおいたち」。

~民青専従 青春そのもの~ の回です。

ちなみに、高知民報は 月400円で週一回発行。
高知県政を始め、高知県内の情勢や運動などを取り上げ、とても読み応えのある新聞です。

高知県の方以外でも購読できます。私の「半熟玉子」も掲載してくれています。
読んでいない方はぜひお読み下さい。

  
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2002年から2010年まで9年間、日本民主青年同盟で専従として勤めました。

大学4年の時に9.11テロ、アフガニスタン攻撃、そしてイラク戦争へと、
私の専従生活は戦争と平和のたたかいから始まりました。
 
 原水爆禁止世界大会に向けての青年実行委員会、ピースフェスタ・パレード、
プルタブのゲルニカ、高校生写真展。多彩な取り組みが次々と生まれました。

「戦争を止められなかった」という無力感が広がる中、学習と議論を重ね、
世界の平和のうねりと一体となって青年・学生たちが行動を起こし続けました。
「微力だけれど無力じゃない」「関心はなくても関係している。青年を信頼して働き掛け続けよう」。
私自身、この運動の中で鍛えられました。


 2004年に民青県委員長になり、力を入れたのが高校生対策。
「テストで下位の自分は大嫌い」、「空気を読んで笑っている」、「生きるのが苦しい」。
競争と管理の教育の中で、傷つき、苦しむ高校生たち。
「うざいくらい関わろう。あなたを見ていることを伝えよう」。

 思い出深いのは、準備に3カ月かけ、当日6時間の鍋会。
段取りの悪さに口出ししそうになるのをぐっと堪え、見守りました。
「こんなに楽しいことはなかった」と満面の笑みの高校生。
自分たちでやり遂げる、という達成感は彼らも私も成長させました。


 楽しいことも多かった専従生活ですが、苦しいことも多くありました。
何度やめたい、と思ったことか。

不安定雇用と「自己責任論」で心を病む青年も増え続け、弱みをみせてはいけない、
仲間を信頼できない、と思わせ、集団作りを困難にさせています。


 県委員会でも集団が作れず、悩み続けましたが、たくさんの失敗を経て、
「スーパーマンはいらない。一人ひとりが主人公」の活動を目指すようになります。

 その中で、県下の青年の実態を聞き取り作った「青年生活実態ファイル」を、
2007年6月に発表し、新聞各紙に大きく取り上げられました。

 みんなで作り上げる活動は、県委員会初の県委員長(私)の産休・育休も支えてくれました。
 民青同盟は青春そのものでした。
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by hamazouzou | 2013-04-11 09:00 | おいたち


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